青年研究会って?

  淡路人形浄瑠璃青年研究会は、簡単に言えば高校のOB会です。
  今では人形浄瑠璃が好きな人たちの集まりになってます。
  事実、私(管理人)は、母に連れられて小さい頃から入っていました(・Å・*)
  詳しい歴史は下の文章をお読み下さい。
  (旧サイトからの写しです)





 淡路人形浄瑠璃青年研究会のあゆみ

昭和45年秋、まだ会の名前すら無かったグループは週3回、当時南淡町福良にあった淡路人形座で練習を始め、師匠に故堀川嘉一氏・故小林藤一氏・故山口巳鶴氏の3氏を迎え、絵本太功記、傾城阿波の鳴門の2つの外題に取り組んだ。同年12月同座の休館とともにスムーズな練習が出来なくなり、又練習場が三原郡の南で日数も多すぎるなど、勤めを終えてからの夜間練習と言う事もあり、残ったのはわずか数人であった。

昭和46年3月に入り建て直しの為に、島内在住の三原高校郷土部OBを調べ勧誘、4月に12名により「淡路人形研究会」として正式に発足。
初代会長に登里進氏が就任し、衰退の一途をたどってきた淡路人形浄瑠璃界にとって、掛け替えのないグループとして期待を寄せられた。

昭和46年9月25日、城崎町に於いて結成して初めての公演「第13回市町村職員共済組合連合記念大会」に出演。
11月1日、練習場を三原郡町村会事務所広間に替え、人形も三原高校郷土部の古くなった物を譲り受けて週3回の練習を1回とし、公演がある場合、公演1週間前から毎日練習することになった。

昭和47年2月2代目会長に福岡久雄氏就任。
2月26日国・県無形文化財指定記念公演。
8月新しい外題「生写朝顔日記」に取り組む。
昭和48年結婚を理由に次々と退会し、会員7名となる。

昭和48年9月三代目会長にA氏が就任。
9月13日兵庫県より「くすの木賞」を受賞。
昭和49年2月結成以来始めてのテレビ番組出演 日本テレビ「本物は誰だ!」
9月会員が5名となり公演が不可能となり、人形操りの基礎練習をする。〔大ピンチ〕

昭和50年4月新会員2名入会し、練習に身が入る。
昭和51年8月29日西淡町連合青年団文化芸能祭に出演。
9月5日第25回三原郡連合青年団文化芸能祭に出演。
9月12日第27回兵庫県青年大会に出場。
9月24日日本テレビ「それは秘密です!」に出演。
10月31日淡路人形浄瑠璃後継者育成グループ講演会出演。

昭和52年1月「淡路人形研究会」から現在の「淡路人形浄瑠璃青年研究会」に改め週2回の練習となる。
角所一志氏に誘われ、青年〔私〕ついに入会する。〔もう何年前になるのでしょうか。古いですね〕
1月28日兵庫県農業青年連絡協議会記念大会に出演〔ついて行くが見学〕
4月11日国文化庁、県文化局来島記念公演〔またもや見学と写真撮影だけ〕
4月24日第6回兵庫県青年洋上大学同窓会総会に出演〔忘れもしない、足使いのスペシャリストとして生写朝顔日記でデビュー。現在まで続くなんて信じられない〕

昭和52年6月16日雑誌「青年運動」の取材。〔私にとっては、初めての取材でした〕
7月23日毎日放送「スター芸能大合戦」に出演〔司会は桂三枝、出演者はフィンガーファイブに榊原郁恵ちゃん。当時19歳のアイドルだった郁恵ちゃんと2人だけで写真を撮りました。その頃は可愛かったですよ。郁恵ちゃんは高校時代人形浄瑠璃をやっていて、かくし芸で研究会と一緒に「三番叟」を演じました。頭を使いましたが、とても上手かった事を覚えています。〕

昭和52年より、鶴沢友路師匠を迎え語りの稽古が始まる。
今までは、人形の操りを中心に練習してきたが、人形だけでなく語りも青年研究会でまかなわれ、残すは三味線の後継者を作る事が課題となった。
以後三味線の後継者が出来るまでに10数年の年月が必要となった。しかし、その時は誰も想像していなかった。〔本当は、出来たら良いなと思っても出来るとは、思わなかった〕

青年団活動の中にスポーツと文化の祭典「全国青年大会」が毎年東京で行われている。
昭和50年から青年団の文化祭に参加していたが、昭和52年から本格的に「全国青年大会」の郷土芸能の部に出場しようと練習に励んだ。
9月4日第26回三原郡連合青年団文化芸能祭で三原郡郷土芸能の部代表に選ばれた。
そして、9月11日に行われた第28回兵庫県青年大会郷土芸能の部に出場した。
結果は、残念ながら全国大会の代表にはなれませんでした。
「何故」と当時は皆思っていました。見た中で自分達が一番だと信じていたからです。
実は、郷土芸能の審査をしていたのが専門家でなかったので、神楽・獅子舞・踊り・人形浄瑠璃等違った芸能という事もあり、圧倒的差を感じさせなければ、出場回数を優先させると言う話を聞いてガックリした。

昭和52年10月23日広島市立久地小学校100周年記念公演。 この時は、なんと広島市の中心部から北へ30q余りの安佐北区安佐町にある広島市立久地小学校に日帰りで行ってきました。
当時は、淡路島から船で渡り明石から新幹線。広島市と言っても山奥の小学校で、広島駅から確か迎えのマイクロバスで、2時間程度かかった事を覚えています。〔とても日帰り出来る所でなかったが、予算の都合もあり強行日程でした〕
久地小学校の近くになると、ナント歓迎の花火が上がり多くの出迎えと歓迎を受け感動しました。〔こんな事だけは覚えています〕

< 広島市立久地小学校のホームページ
http://www.kuchi-e.edu.city.hiroshima.jp/
現在は生徒の数も極端に減っています。淋しいですね。

< 昭和53年は、会にとって大飛躍の年であり黄金期の始まりでもありました。
1月31日この年早くも3回目の公演でした。
南淡町にある国民休暇村に、東京宝仙学院女子短期大学生を迎えての公演で、若かった私は異常に力が入りました。その後の交流を楽しみに。。。。オット電話番号を聞くのを忘れて大失敗でした。しかし、惜しかった。残念無念。

昭和53年5月5日、この年9回目の公演は、故山口巳鶴師匠の地元三原町寺内公会堂の竣工式でした。
お祝という事で、「三番叟」をするつもりで行った所、「舞台が無いので入口でやってくれ」と言われ、会場を見てビックリ。
奥行きが1mに横幅が2.5mしか無く、この中で人形が3体に人間9人が入り遣うわけで、動けませんでした。
以後、色んな会場・舞台でしましたが、これほど狭い所は、後にも先にも「ここが一番ヤー」でした。
ですから、その後どんな場所でも驚かずにやる事が出来ました。

昭和53年9月3日第27回三原郡連合青年団文化芸能祭に出場。三原郡代表に選ばれ県大会へ。
9月10日第29回兵庫県青年大会に出場。
前年度の反省から、外題を「太功記十段目 尼崎の段」に変更し、再チャレンジ。
結果は、見事「優秀賞」ついに悲願の全国大会のキップを手にした。「ヤッタネ」
この時、青年研究会の平均年齢は24才。会の名前通りに若かった。

昭和53年11月8日、いよいよ全国青年大会参加の為、朝早くから淡路島を出発して神戸へ。
兵庫県の全域からスポーツと文化の代表が集い、ユニホーム〔ジャージでした〕が渡され午後から結団式が行われた。〔今から東京に行くんだと言う気持ちでワクワク〕
夕方大阪駅に着き、ここから新幹線でなく夜行電車〔寝台車とは違ってただの電車〕で、いざ東京へ。
電車の中では酒を飲みつつワイワイガヤガヤ、途中の駅でも酒を買いあさる。山口師匠を筆頭に当時の会員の多くは大酒飲みだった。〔ひっとしてアル中軍団だったのかも〕

昭和52年11月9日、役8時間かけて、明け方やっとの事で東京駅に到着。
2時間程度は寝れたでしょうか。眠い目を擦りながら、またまた神宮外苑の昭和54年2月完成予定の建設中の日本青年会館を見つつ移動。その後国立競技場横で入場行進の練習。
午後1時より国立競技場に於いて開会式が、行われました。
施設一流、選手?流の大会。会場の雰囲気に、田舎モンは痛く感動しました。
その後、東京体育館に移動し、交歓会が開かれました。その中で、今も記憶に残っているのは、日本体育大学の「エッサッサ」でした。
男子学生が、上半身裸で「エッサッサッー」と言いながら踊っているだけでしたが。。。。

昭和53年11月10日、この日はいよいよ第27回全国青年大会各競技の予選が始まった。
郷土芸能の部は、会場の九段会館で出場する33
団体の神楽・獅子舞・踊り・太鼓・剣舞・唄・人形浄瑠璃のリハーサルが行われた。
さすが、各都道府県の代表で、レベルの高さが感じられた。
ただ皆は、朝からビール、リハーサルの合間も、ビールとお酒を飲み緊張感の無い一日でもありました。

昭和53年11月11日 本番の日を迎えた。
出演は33組中の13番目で、審査される出番としては、後半の残り10組と比べて不利な順番となった。
最初、北海道代表の「二宮獅子舞神楽」から始まり、順次各県代表が出演した。
そして、私達の前の12組目が静岡県代表の「駿府若衆太鼓」だった。
太鼓の音が会場の中を響き渡り、出番を待つ私達の耳にも届いた。
「前の組が派手な演奏をしよるけど、後から浄瑠璃では、地味に思われ変だろか」なんて思いながら出番を迎えた。
「13組目、兵庫県代表淡路人形浄瑠璃青年研究会の淡路人形浄瑠璃、絵本太功記十段目尼崎の段」の紹介アナウンスが流れた。
口上の後、三味線の音と太夫の声が会場に流れた時、私の緊張はピークに達していた。
いよいよ出番。私は、光秀の足遣いで舞台に立った。

舞台での演技は、普段の舞台と違い、審査をされていると言う意識が強く働き、失敗できないと言う思いで、いつもと違う特別な緊張感の中で行われた。
自分の中では、アッという間に演技が終わってしまい、拍手の中で幕が閉じられた。
終わった瞬間、自分の力を全て出し尽くしたと言う安堵で、力が抜けていく。
その後、皆の顔を見ると、いい顔をしていた。きっといい結果が得られると確信をこの時持った。
しかし、その後他の代表の素晴らしい演技を見るうちに、トップになる事の難しさを知ったのでした。

33団体全て演技が終わり、緊張の中で審査発表を待った。
とうぜん、審査は時間が掛かるようだった。
すると、どこからとも無く飛び入りで舞台に人が出てきてパホーマンスが始まった。兵庫県からも、中学校時代体操部だった舞台係の中川さんが、見事なバク転を披露し会場を沸かせた。
そんなこんなをしている間に、いよいよ審査発表の時間が来た。
まず最初に講評があり、続いて結果発表がされた。
今回は、表彰対象が8団体であり、そのうち優秀賞が4団体である事が告げられ、順次団体名が呼ばれた。
しかし名前が、なかなか呼ばれない。残り2団体と成った時、「兵庫県三原郡代表 淡路人形浄瑠璃」のアナウンス。「やった」と言う思いと感激がこみ上げた。
表彰式が終わり、その後全員で銀座の中華料理店で祝勝会が延々と行われ、楽しい一夜をすごした。〔この時のお酒もすごかった〕

昭和53年12月、第27回全国青年大会の郷土芸能の部に於いて、見事優秀賞に輝き、その甲斐あって、アメリカのロサンゼルスにあるディズニーランドより、翌年3月31日に行われる「第3回日本祭」への参加要請が、日本青年団協議会を通じて淡路人形浄瑠璃青年研究会に来た。
会員は勿論、淡路人形協会とも協議した中で、この素晴らしい伝統芸能「淡路人形浄瑠璃」を米国は勿論、世界の人々に紹介する良い機会であり、文化交流、相互理解の一助に成ればと参加する事を決定した。〔この時は、これからどれだけ大変な事に成るのか、私は本当の所理解していなかった〕

昭和54年1月、アメリカ公演の為に、新たに三原高校郷土部OBに呼びかけて、新メンバーを募り、5名が新たに加わった。
又、渡航資金とPRの為に、記念公演を計画し、実施する為にポスターとチケットを制作しチケットの販売をお願いする為に、各町を回った。
さらに、背景幕や黒子、人形と小道具を入れるトランク等を新たに制作並びに購入した。
予想以上に費用がかさみ、練習と公演準備をしながら、毎日各種団体や会社事業所、個人等に寄付のお願いに回る事となった。〔目標900万円とんでもない金額でした〕

昭和54年3月4日、最初の「ディズニーランド日本祭参加記念公演」が、三原町市地区公民館に於いて行われた。
以後、毎週公演をする為に、平日は公演のチケット販売とポスター貼りに奔走した。
3月11日、南淡町阿万体育館で公演を行う。
3月13日、NHK・神戸新聞社の取材を受ける。
3月17日、南淡町海上ホテルで公演を行う。
3月18日、西淡町社会教育センターで公演を行う。
3月19日、「ディズニーランド日本祭」の壮行会が、三原町の三ツ矢殿で行う。
3月23日、読売テレビの取材を受ける。
3月25日、洲本市民会館で公演を行う。
3月26日、文化庁及び県教育委員会から役員が来島。南淡町のやぶ萬に於いて、交歓会。
この3月は、仕事をしないで公演の合間に、公演のチケット販売とポスター貼り、寄付金のお願いにと奔走した。〔今の自分なら無理だが、若いって素晴らしい〕

3月28日、大変な思いと経験をしたのも、この日の為で、アメリカに出発する日を迎えました。
朝、三原郡町村会事務所に20名全員が集合し、いよいよ出発です。
お昼には、伊丹空港に到着しました。
実は、飛行機に乗るのは初めてでドキドキ 未覆爾・▲悒螢灰廛拭爾肋茲辰浸・呂△蠅泙靴燭・
14:25発のJL154便の飛行機で、伊丹空港からアメリカへの直行便でなく、成田経由でした。
15:30成田到着。
17:00発のJL062便の飛行機で、いざアメリカへ。
日付変更線を超えたので、ロサンゼルスに着いたのは、同じく3月28日の9:20でした。
到着後、ロサンゼルス市内観光をしました。〔飛行機の中では、興奮の余り寝れなかったのがタタリ、市内観光の道中は寝てばかりヘトヘト〕とてつもなく長〜い一日でした。

3月29日、サンディエゴ市及び国境を越えて、メキシコ合衆国まで日帰り小旅行。
メキシコでは、土産品を購入する為にショッピング。ある店で一生懸命値切って買った品が、他の店では同じ品物が最初から、それ以下で売られていた。〔大失敗〕
3月30日、日本人が多く住むロサンゼルスにある、リトル東京タワーズの老人ホームを慰問公演をした。
観に来てくれたのは、ほとんどが一世か二世で、日本の伝統芸能「淡路人形浄瑠璃」を見て感激と感動で、多くの人が涙を流した。
その姿を見て私も熱いものを感じ、ここで公演できた事がうれしかった。

3月29日、サンディエゴ市及び国境を越えて、メキシコ合衆国まで日帰り小旅行。
メキシコでは、土産品を購入する為にショッピング。ある店で一生懸命値切って買った品が、他の店では同じ品物が最初から、それ以下で売られていた。〔大失敗〕
3月30日、日本人が多く住むロサンゼルスにある、リトル東京タワーズの老人ホームを慰問公演をした。
観に来てくれたのは、ほとんどが一世か二世で、日本の伝統芸能「淡路人形浄瑠璃」を見て感激と感動で、多くの人が涙を流した。
その姿を見て私も熱いものを感じ、ここで公演できた事がうれしかった。

3月31日、9:00ディズニーランド駐車場に到着。とにかく広いのビックリ。歩いて園内に行けないので、駐車場から送迎カーに乗ってディズニーランドの舞台裏へと行った。
舞台裏には、色んなキャラクターのぬいぐるみがあった。〔ミッキーマウスは見なかったが〕
舞台準備を終えて昼食の後、ディズニーランド中でたくさんのディズニーの仲間たちとともに、なんとゲストとして別のフロートに乗って壮麗なパレードに参加した。
夢のような一時ではあったが、人形を持って黒子姿で参加〔派手な中でエライ地味だった〕

3月31日、パレードも終わり15:00より、いよいよ公演です。
ステージは、なんとスペースマウンティンがある建物の1階で、2000人程度が見ることが出来、1階の客席を囲むように2階3階からも見る事が出来ます。
最初に、会の紹介と「絵本太功記十段目尼崎の段」のあらすじを英語でアナウンスしてもらいました。
淡路人形浄瑠璃が日本人以外の人に、どう理解してもらえるのか心配でしたが、とにかく、恥ずかしくない舞台にしたいと、一生懸命でした。ただ、上から覗き込まれるようで、少しやりにくかったですが。
最後に、終わって大きな拍手をいただきました。〔やったね〕
続いて15:00からも「生写朝顔日記」しました。これまた、講評でした。〔良かった良かった〕

4月1日、朝からディズニーランド内を4時間だけ見学。〔日本みたいに混雑していませんから、けっこう回れました〕
14:00園内をまたまたフロートに乗ってパレード。
15:00と17:40から前日と同じく2回の公演をこなした。
19:00ディズニーランドホテルに於いて日本祭パーティ「ジャパンナイト」が開かれ参加。素敵なショーが繰り広げられた。〔本格的なパーティに出席するのは初めて、料理やショーに感動でした〕
同じテーブルにいたエスコートガールに、人形の光秀だけがキスをしてもらった。〔うらやましい〕

4月2日、アメリカで5回の公演を終えて、アッというまに帰国する日が来ました。
9:30ホテルを出発してロサンゼルス空港に。
12:15ロサンゼルス発サンフランシスコを経由してJL061便で、途中ハワイに給油の為に立ち寄り、帰国の途へ。〔エライ時間が掛かった〕
4月3日、16:30成田空港着。この時は、電車が東京まで行っていなかったので、羽田までリムジンバス移動。20:00成田空港着。遅くなったので羽田東急ホテルで泊まる事に。
4月4日、何故か14:25羽田発の飛行機で。
15:25伊丹空港に到着。バスで淡路島へ。
夜遅く、町村会事務所に到着。
〔事故無く、全員無事元気に戻ってきました。万歳。〕

アメリカから帰ってすぐの4月8日には、早くも南淡町阿万体育館で行われる戦没者慰霊祭に招かれ公演〔しかし、若いから元気だ。ただ当時皆の仕事はどうなっていたのかな?〕
4月15日三原町郷土芸能祭に出演〔現在の三原町文化芸能祭の前進で、殆んど「だんじリ唄」の競演会でもあった〕

7月7日、神戸市立福田中学生が来島。国立淡路青年の家で公演。
7月8日、生花の小笠原流淡路支部発会式で公演。〔淡路島グランドホテルに於いて〕
7月30日、洋上大学生と中国青年との交歓会で公演。〔洲本市市民会館に於いて〕
8月19日、三原町榎列の大榎列青年団文化祭に出演。〔榎列小学校体育館に於いて〕
9月2日、第28回三原郡連合青年団文化芸能祭に出演。〔南淡町賀集体育館に於いて〕
9月23日、兵庫県連合青年団30周年記念で公演。〔神戸西山記念会館に於いて〕
10月28日、国立淡路青年の家10周年記念で公演。
10月29日、五色町鳥飼青年団文化祭に出演。〔鳥飼小学校体育館に於いて〕
11月1日、田中家結婚式にて、お祝いの「寿式三番叟」〔うめ丸に於いて〕
11月3日、三原町神代神稲支部青年団発表会に出演。〔神代小学校に於いて〕
11月4日、竹田家結婚式にて、お祝いの「寿式三番叟」〔海月館に於いて〕
11月25日、洲本市物部敬老会で公演。〔勤労センター〕
この時代、青年団活動が活発に行われ、全国大会優秀賞のわが会は各青年団の文化祭に引っ張りだことなる。

昭和55年
1月3日、四代目会長に角所一志氏が就任。〔富長君は、この時まだ生まれていませんよね〕
1月19日、NHK「兵庫わが町」取材。
1月23日、雑誌「カーロード」取材。
〔なぜか自動車雑誌に取り上げられました〕
1月26日、東京宝仙学院女子短期大学来島。
〔2年前と同じく国民休暇村にて公演〕
1月29日、長谷家結婚記念〔海上ホテル〕